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3月11日によせて

震災から1年後の2012年の3月11日。

気仙沼や仙台の子どもたちに

『夢』とか『将来の希望』なんて言葉を話すことはできませんでした。

震災の被害や痕跡が大きく、そんな言葉が軽々しく思えました。

まずはその現実の中で暮らすこどもたちと、少しでも楽しく、

解放される時間が作れたらいいな、と。

その日は、気仙沼でこどもたちと一緒に過ごしていました。

午後2時46分、地震が起きた時間のサイレンを、

子ども達と一緒に聞き、黙祷しました。

こどもたちから直接、3月11日当日の話を聞いたのは、

この時が初めてでした。

それまで、こどもたちも話さなかったし、

私もあえて聞くことはありませんでした。

2年後の、昨年の3月11日。

自分が東京という離れた場所に住んでいる、現実的な問題以上に、

これから、気仙沼の子どもたちとどう向き合い、

関わり続けて行けばよいのか。

外に暮らしている自分たちが、なにをしてゆけばよいのか。

そんなことを考え続けていました。

3年後の今年、春のキャンプを準備しています。

昨冬、そしてこの春キャンプと、

少しづつ、『夢』とか『将来』という言葉を使い始めました。

でもそれは、気仙沼の復興が進んだから、

と考えての事ではありません。

今年の一月にも、気仙沼を訪れました。

何人かの子どもと再会しましたが、

彼らはたくましく暮らしていました。

彼らの、外からはうかがいしれない気持ちも想像しながら、

彼らのたくましさに呼応したいと思い、

迷いながらも、夢、将来という言葉を使いました。

でもいまだに、子どもたち、気仙沼や被災地の方々を思うと、

迷い悩むところがあります。

夢とか将来なんて言葉を、被災地の外に暮らす私たちから、

軽々しく言ってほしくはないのでは?と。

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2011年の3.11。あの震災当日、私は東京にいました。

気仙沼や仙台のこどもとの出会いは、前年の2010年夏、秋。

気仙沼で行われたある団体のこども自然体験の宿泊行事に

スタッフとして参加しました。

その時に知り合った子どもたちと住所交換、手紙の

やりとりをしていました。

震災当日から気仙沼や仙台の被害の様子を知り、

インターネットで、避難所の避難者名簿をひたすら調べ、

知っている子どもの消息を知ろうとする毎日になりました。

1か月後の4月8日、気仙沼に行き

避難所で過ごしていた子どもたちと再会しました。

以後約半年、気仙沼に居ました。

震災後の子どもたちとの活動を始めたのは、

2011年8月でした。

震災から3年、私の気仙沼や仙台の子どもたちとの関わりは、

4年近くになりました。

外に住む人間の私が、どう表現して良いのか悩むところですが、

「まだまだ復旧、復興は進んでいない」という

気仙沼の方々の話と、

自分が目にした、今の気仙沼の街の風景を想う中で、

子どもたちに、今の状況、街の風景が『あたりまえ』のものだと、

そんな諦念のような想いは持ってほしく無いな、と考えました。

そこで、夢や将来という言葉を使い始めました。

私たちに何ができるのか、迷いながら、

このキャンプを通じて、気仙沼や仙台の子どもたちと再会し、

何かを共有したい、

子どもだけでなく、通じて大人の方々ともつながってゆきたい、

そんなことを考え、春のキャンプを準備しています。

皆さまと再会できることを楽しみに、願っています。


こどもキャンプ(こども・わらずキャンプ楽会)  渡辺和浩

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